2007年9月アーカイブ
シャトー・モンブスケというワインがある。
この白が絶品である。
グラスに注ぐと、妖しい香りが立ち昇る。
「一杯で殺すワインです」
と、東急百貨店の本間敦さんが言った。
音楽を作るとき、ぼくはイントロを重要視する。
はしょってよいものなど何一つないが、それでもイントロは特別だ。
導入部の印象が、曲全体の運命を支配するような気がするからである。
段取り仕事であってはならない。
かといって大げさでもいけない。
ぴたりと決まるサイズ。
はっとするアイデア。
一音一音に必然性のあるイントロを作り出してくれるのが、今回アレンジをお願いした佐々木誠君である。
今回マコリンは、J-POPとジプシーミュージックの融合という課題に全力で取り組んでくれた。楽な仕事ではなかったはずだ、きっと。
コードを展開し、ややもすると動き回ろうとするぼくを、マコリンはその都度やんわりとたしなめた。「ユウちゃん、それじゃあ昭和歌謡になっちゃうよ」
試行錯誤の末、誕生したのが『日本・トルコ友好のテーマ』である。
Em一発で疾走するイントロに鳥肌が立つ。
庄野真代さんにふさわしい、異国情緒漂うJ-POPが仕上がった。
マコリンのアレンジは、シャトー・モンブスケの白に似ている。
「一杯で殺す」技の冴え。
妖しい香りを、楽しんで下さい。
photo=濃厚な白ワインと塩辛(c.nagase)
トルコ記念館・館内の両国旗 風にたなびく両国旗 慰霊碑
(写真をクリックすると拡大表示します)
「トルコといえば、親日国のイメージが強い。宿敵、ロシアを日本が戦争で破ったときは、国を挙げてのお祭り騒ぎだったらしい。明治23(1890)年に紀伊半島沖で遭難したトルコ軍艦を地元の漁民が救助した話は、歴史教科書にも載っている」(「産経抄」2007.7.24)
「本州最南端の海」の項で触れた串本町樫野崎には、トルコ軍艦遭難慰霊碑がある。
その隣に「トルコ記念館」。串本町とトルコは、百年以上の長きにわたって友情を温めてきたわけだ。遭難者を助けた人々も偉いが、その恩義を忘れないトルコ人が見事だ。
そういえば、イラン・イラク戦争のとき、イランに取り残された日本人を救出してくれたのはトルコ航空機だった。信義を重んじる人々なのだろう。
串本町役場の濱口さんに案内されて、及川さん夫婦とぼくは「トルコ記念館」を訪れた。
及川さんのブログの読者はよくご存知だろう。彼女の夫エロル君はトルコ人である。
及川さんは目黒以外、イスタンブールにも自宅を持っている。二人は隔月に行き来する地球規模的遠距離通い婚の当事者でもある。
館内資料室の天井に、日本とトルコの国旗が並んで掲揚されている。
片や白地に赤い太陽。
片や赤地に白抜きの星と三日月。
「タイガー&ドラゴン」ではないが、一対の意匠のように見える。
及川さんがトルコに伝わる古い伝説を語りはじめた。
今は昔。モンゴル高原に生まれた民族が、西と東に分かれて旅をすることになった。
西をめざす一団は星と月を、東を目指す一団は太陽をシンボルに選び、地球を半周して再会する約束をした。旅の途中、星と月の民はトルコに、太陽の民は日本に定住し、それぞれの国を興したのだという。ロマンチックだなあ。及川さんとエロルは、遠い祖先の記憶に導かれて出会い、恋に落ち、結ばれたのだ。きっと。
星と月と太陽がひとつの大地を照らしている。
芭蕉の俳句のような壮大な風景を思い浮かべながら、ぼくの中でトルコがどんどん身近な存在になっていく。
photp=c.nagase
4メートル道路の突き当りに東陽中学校がある。正門をくぐる道はこれ一本しかない。必然的に朝は込み合う。何しろ900名を超える全校生徒が一堂に会するのだ。鮭の遡上を思わせる光景だった。
中学時代の一番の楽しみは、登下校時に流れる音楽だった。とにかく放送部のセンスがふるっていた。ありきたりの曲ではなく、最新のヒット曲を一週間ぶっ続けに流してくれるのだ。お金のない中学生には、貴重な情報源だった。
たとえばガロの『学生街の喫茶店』を口ずさみながら学校に通う楽しさ。
「ボブディランって何やろ?」
「歌手やろか」
胡蝶蘭でないことは確かである。
吉田拓郎もチューリップも、ぼくはこの通学路で覚えた。
ちあきなおみの『喝采』を聞いたときは、見てはならないものを見てしまったような気がした。小柳ルミ子の『漁火恋歌』はなぜか2日間で打ち切られた。誰かの見識が働いたのだろうか。昨日のことのように覚えている。
アルバート・ハモンドが、ミッシェル・ポルナレフが中学生の胸を打ち抜いてゆく。
サンタナの『哀愁のヨーロッパ』、ジャニス・イアンの『恋は盲目』の衝撃は、いまも生々しい。オリビア・ニュートンジョンの『そよ風の誘惑』が流れたときは心が震えた。
誰も好きな人はいないのに、誰かを好きになりそうな不思議な気分だった。
この通学路で、ぼくの音楽的な嗜好が形づくられたのだと思う。
暗さよりも明るさを。
重厚さよりも軽快さを。
悲しみよりもときめきを。
音楽に即して、自分の性格が形成されたような気がする。
ポピュラーミュージックの種子が心に降り注ぐ、まことに贅沢な日々だった。
photo=東陽中学校の通学路(c.nagase)
東陽中学校の解体工事がはじまった。
昭和11年建築の木造校舎は、四方を足場に取り囲まれても、なお悠然として見える。
巨躯を横たえ、西日に脇腹を照らされている。
あっさりしたものだ、働き通したあなたは、地上に何の未練もないのだろう。
しかし、見送る側はそうはいかない。
中庭の薔薇園も消える。
渡り廊下も消える。
何もかも消える。
もたいないねぇ。せめて映像に残したいねぇ、といって有志が集まり、東陽中学校は映画の舞台になった。こうして『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』が完成した。
大それた野心があったわけではない。地元での公開を成功させて、仲間でうまい酒が飲めればいいと思っていた。
ところが、三木和史プロデューサーの奔走が功を奏し、映画は各地で上映された。東京、大阪、名古屋、札幌、福井。
あろうことか、最後はカンヌ映画祭の会場にたどり着いた。おお、憧れのレッドカーペット!実行委員会のメンバーは、はしゃぐタイミングをつかみ損ねて、最後まできょとんとしたままだった。(実は現場にぼくもいた)
母校に撮影隊が来ることは、褒められるべきことか、たしなめられるべきことか。
いまのぼくにはわからない。ただ子供たちには、肩を落として生きるより、胸を張って生きてもらいたい。
目の前にあるのは、廊下がきしみ、すきま風の吹くオンボロ校舎でしかない。そこに見学者が訪れ、記念撮影をして帰って行く。痛快ではないか。そのきっかけを作ったのは、1本の映画だ。
このブログは、旅の実況中継でもある。
photo=解体工事が始まった東陽中学校の校舎(c.nagase)
密集する民家は狭い路地に隔てられ、一軒一軒の暮らしが音になり、匂いとなって路上に漂った。
テレビ番組の声、子供の名前、食器の触れ合う音まで耳に届いた。プライバシーなど、どこにもなかった。
行き止まりに半裸の男たちがたむろしていた。不穏な空気が淀んでいた。日に焼けた肌。目が合うと、闇の中から睨まれている気がした。ひぇー。ぼくは怪しい者じゃありません。
湿った土の匂いは、アスファルトの下に消えた。
車道は屋敷町を破壊し、海と駅とを直線で結んだ。
あの頃身近に感じた異形の存在は、ぼくらの前から姿を消した。
死角に潜む妖怪たちが、全ていなくなるのは淋しい。
photo=古い石垣が残る田辺市内の路地(c.nagase)
国道42号線は蛇行する。
海岸線の形をなぞりながら、アップダウンをくり返し、太陽を求めて南へ走る。
照葉樹林は太古の夢にまどろみ、増殖し、暴走し、海になだれ込む。
森と海の境界線が、国道42号線である。
「絵になるなあ」と及川さんが言う。
片やうっそうと茂る森。
片や陽光にきらめく海。
毛むくじゃらの腕が、ドレスの裾を鷲づかみにするかのようだ。
南国ならではのエロティシズムが漂う。
自然が内包する男性性と女性性が鋭く対立する道を、及川さんのクライスラーが走り抜けて行く。
熊野古道をテーマに歌を作る以上、森と海、ふたつの風景ははずせまい、というのがぼくたちの共通理解だった。対称的なふたつの物語が生まれるにちがいない。しかし、何かが足りない。及川さんは、月イチのペースで南紀白浜空港に降り立ち、ぼくたちは海岸線を走り、山深い道を歩いた。
そして...
この日たどり着いた本州最南端の海は、圧巻だった。
樫野崎灯台の手すりに立つと、視界の全てが青く染まった。
足下に黒潮が打ち寄せ、波の飛沫を高く躍らせた。
岬に立つと世界が小さく感じられる。
海をへだてて、対岸は異国なのだ。
世界に届く歌が作りたいね。
ぼくたちは海風にあおられながら、水平線に目を凝らしていた。
photo=串本町大島の樫野崎灯台(c.nagase)
きっかけは1本の電話だった。
作詞家の及川眠子さんが土地を探しているという。しかも、田辺市近郊で。2006年の秋だった。
「こっちに住むんか?」
「週末だけな」
聞けば、平日は東京で仕事をし、プライヴェイトは海を見ながら過したいと言う。パリの建築デザイナーみたいな生活だ。
ええけど、田舎の生活に溶け込むのは大変やぞ。まず友人知己を増やさんとな。そのためには、なんぞ地域の役に立たんとな。云々。
「わたし神輿かついだりでけへんで」
そらそうや。
「あんた作詞家なんやから、地元の歌でも作ったらどうや?」
「そらおもろいな」
こうして『熊野古道ランドマークソング・プロジェクト』の原型が生まれたのだった。
思えば四半世紀前、及川さんとぼくは『マガタマコロコロ』というバンドを一緒にやっていた。都内のライブハウスを荒らしまわった。2年ばかり活動をしたが、毎日女の子に追いかけ回される生活に、いい加減うんざりしはじめていた。こんなはずじゃなかった。静かに音楽を愛したかった。まだ若く、忍耐力のないぼくたちは、いつのまにか解散の2文字を口にしはじめていた。
「やめてどうする?」
「田舎に帰る。田舎に帰って代用教員にでもなる」
そうか、と及川さんは溜息をついた。わたしは残る、と彼女は言った。東京に残って作詞家になると。
その後の大活躍は、周知の通りである。競争の厳しい世界でメキメキと頭角を表し、あっという間に日本レコード大賞をものにしてしまった。驚くべき才能である。
これに対して自分はどうか?代用教員になるためには、教員免許が必要なことを、実家に帰ってから気がついた。その後の紆余曲折は、別の機会に譲ろう。
とまれ、25年ぶりに及川さんと歌を作ることになった。
はしゃぐな、オレ。
大丈夫か、オレ?
photo=田辺市中辺路町の大銀杏(c.nagase)