テンピュールの枕
東京の定宿の枕がテンピュールだった。
最初は気持ちが悪かった。
低反発素材というのだろうか。
すと、と指がめりこむ。
くぼみがなかなか戻らない。
異様にやわらかい。
ところが持ち上げてみると、
意外に素材の密度が高く、重い。
何だろう、これ?
何かを思い出しそうになる。
ずっと気になっていた。
そして先日、
JR天王寺駅前の居酒屋で「粕汁」をすすっていて気が付いた。
わかった!
酒粕だ!
テンピュールの枕は酒粕そっくりだ!
もやもやが晴れて以来、
テンピュールの枕が好きになってしまった。
枕に頭を載せ、
鮭のアラや、大根や、人参や、こんにゃくのことを考える。
目を閉じて粕汁の具を思い浮かべる。
具になって粕汁の中に浮かぶ自分自身を想像してみる。
次第に体温が上昇する。
いつの間にか眠りに落ちている。
睡眠障害が嘘のようだ。
photo=c.nagase
天王寺駅前の居酒屋で粕汁がいいですね!
一仕事終わって、夕方ではないけどやや日が少し西に傾いて、左に麦焼酎の水割りがあって、瞬間と永遠と禍福が渾然となってるような感じ・・・。いいね!
「瞬間と永遠と禍福が渾然となっているような感じ」
ほろ酔いの心地よさは、
淡い悲しみがかくし味になっているのかも知れません。
太陽が西に傾くと街に陰影が生まれるように、
心の光線が少し弱くなったとき、
ぼくたちの内面にも複雑な陰影が生まれるようです。
不安とか、
孤独とか、
後悔とか。
絵画は光の変化を捉えて余すところがないけれど、
優れた作品はやはり作家の心の影を映し出して入るような気がします。
その切なさが人を魅了してやまないのでしょうね。
きっと。
優れた作品は作家の心の影を映し出しているというのは大賛成です。
それにしても、粕汁の中に浮かぶ自分自身を想像して、いつの間にか眠りに落ちているというのは〝芸術家の域〟だ。そして意識は夢の中へ「行こう 誰かが刻んだ夢の続きを継ぐために」
歌詞の行間に粕汁が見え隠れ・・・してるわけ無いですよね。
丁度さん、ありがとう!
自分でも不思議なのですが、
粕汁の正体不明な感じが好きです。
家庭の団欒にも似合うし、場末の居酒屋にも似合う。
上品なのか下品なのかよくわからない。
にぎやかな酒にも似合うし、うらぶれた酒にも似合う。
陽気なのか陰気なのかよくわからない。
色あざやかに見えるときあるし、
胃の内容物に見えるときもある。
そもそも、うまいのかまずいのかよくわからない。
かなしみとおかしみが渾然一体をなす感じ。
年老いたコメディアンのような粕汁が、
時折無性に食べたくなります。
その感じ!
この間の飛行機は中国の会社でしたので日本語が全く通じず、丁重なのか無礼なのか「俺を誰やと思ってんねん!」っていう感じの天王寺の粕汁に限りない愛着を感じます。
ぼくの大好きな日本画家は、人によって全然別人に見えるみたいです。
「舘ひろし」に似ているという人もいれば、
「笑福亭笑瓶」に似ているという人もいる。
同一人物とは思えない落差の大きさです。
たしかに昼間モディリアーニの絶望について語っていた人が、
夜になると「三のつく数字と三の倍数のときだけアホになる」のですから、
無理もないっちゃあ、無理もないのですが。
かなしみとおかしみが渾然一体をなす粕汁のような人とは、
こういう人のことかも知れません。
ちなみに笑福亭笑瓶の本名は、
「渡士 洋(としひろし)」というそうです。
名前だけならそっくりだ!
『Wikipedia』を読みながら、
ひっくり返りそうになりました。
あっ、その日本画家さんって、たぶんあの人のことですよね。モディリアーニもナベアツも「世界の」と形容できる点では共通していますが、そのギャップはかなりのもですね。昼間が「世界のナベアツ」になったら、気を付けてあげてください。
それヤバイです。
ありえないと言い切れないところが、怖いところです。